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第3話 六人目の既読

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-08-03 21:39:39

 朝になっても、玄関の外には誰もいなかった。

 澪が通報してから二十分ほどで警察官が二人訪れたが、共用廊下にも非常階段にも、濡れた靴跡ひとつ残っていなかった。防犯カメラは午前零時前から一時間だけ記録が途切れ、管理会社は雷による一時的な不具合だろうと答えた。

 赤い組紐だけが、部屋の中に残った。

 透明な食品保存袋へ入れ、さらにハンカチで包んでも、鞄の中から湿った絹の匂いがした。

 午前九時を少し過ぎた駅前は、昨夜の雨を引きずっていた。歩道のくぼみには濁った水が溜まり、通勤客の靴がそこを踏むたび、細かな飛沫が跳ねる。雲は低く、ガラス張りのビルの上層を灰色に曇らせていた。

 澪は喫茶店の窓際で、両手を膝の上に重ねていた。

 眠れなかった。瞼の裏には、扉の向こうから自分を呼んだ少女の口元が、見てもいないのに焼きついている。

 澪ちゃん。開けて。

 声が耳の近くで蘇るたび、首筋の産毛が立った。

 入口の鈴が鳴った。

 神代朔は、外の湿気をほとんど連れ込まずに店へ入ってきた。

 黒いシャツの上に薄手の濃紺のジャケットを羽織り、肩から仕事用の小型カメラを下げている。雨上がりの光を受けても、顔色は普段と変わらない。目の下にわずかな影はあったが、足取りも姿勢も崩れていなかった。

「待たせた」

「ううん。私も今来たところ」

 嘘だった。三十分前から同じ席にいる。

 朔は指摘せず、向かいの椅子を引いた。脚が床を擦る音に、澪の肩が小さく揺れる。その反応を見て、朔の視線が一度だけ玄関へ向いた。

「昨夜、あのあと何かあったか」

「警察が来るまで、声はしなかった。チャイムも鳴ってない。外には誰もいなかったって」

「防犯カメラは」

「その時間だけ映ってなかった」

 朔は表情を変えなかった。

 店員が水とおしぼりを置く。朔は珈琲を、澪は注文していた紅茶のお代わりを頼んだ。店員が離れるまで、二人とも黙っていた。

 窓の外を傘を閉じた人々が流れていく。カップの触れ合う音、ミルクを泡立てる蒸気、低く流れる古い洋楽。明るい店内にいれば、昨夜の暗闇だけが別の世界の出来事だったように思えた。

 澪は鞄を開いた。

「これ」

 ハンカチをほどき、保存袋をテーブルへ置く。

 赤い組紐は乾いていた。

 昨夜は水を吸い、指へ絡みつくほど柔らかかった。今は細く硬くなり、黒ずんだ赤が古い傷のように見える。

 朔はジャケットの内ポケットから薄い手袋を取り出した。

「触ったのか」

「ポケットから出すときに。素手で」

「手は洗った?」

「何度も」

 朔は袋越しに組紐を裏返し、留め具の部分へ顔を寄せた。指先の動きは慎重だった。何かを扱うというより、壊れやすい証拠を検分している。

 小型カメラを机へ置き、組紐の全体と結び目を数枚撮る。電子音を切っているため、撮影の瞬間には小さな作動音しか聞こえなかった。

「血らしい変色はない。泥もついてない」

「水だけ?」

「見た限りでは。糸は絹だと思う。新しいものじゃない。光に当たった退色じゃなくて、湿気のある場所で長く保管された変色に見える」

 朔は袋を持ち上げ、窓から差す鈍い光へかざした。

 組紐の一部だけ、細い糸が白く抜けている。

「切れた跡がある」

「切れた?」

「一度、強く引っ張られてる。表面の糸だけ裂けて、芯は残った」

 澪は八年前の澄花の手首を思い出した。

 門扉の前で、赤い紐をほどく細い指。

 帰る道を忘れないため。

 澄花はそう言って笑った。

「八年前、これを見た?」

 朔が訊いた。

「澄花が手首に巻いてた」

「事件のあとには?」

「見てない。警察に押収された持ち物の一覧にもなかったと思う。少なくとも、私が持ってるはずはない」

「そうだな」

 朔は袋の口を折り、持参した透明な証拠袋へ入れ替えた。封を閉じる前、留め具の裏側をもう一度確かめる。

 一瞬だけ、その指が止まった。

「何かある?」

「傷だ」

 朔は角度を変えた。

 金色の留め具に、針先で刻んだような細い線が七本並んでいる。昨夜、澪は気づかなかった。

「最初からあったのかな」

「分からない」

「澄花がつけた?」

 朔は答えず、袋を閉じた。

 珈琲と紅茶が運ばれてくる。澪が砂糖へ手を伸ばすと、スプーンが受け皿へ当たり、甲高い音を立てた。指が震えている。朔は視線だけをそこへ落とし、何も言わなかった。

「ほかの四人には連絡した」

 朔が珈琲へ口をつける前に言った。

「返事は?」

「全員から来た。同じメールを受け取ってる」

 澪の手が止まった。

「全員?」

「美月、悠斗、奈々香、透。受信時刻も午後十一時三十八分」

「写真は」

「同じだ。最初は澄花、開いたあとは自分の顔が消えた」

 六人。

 八年前、門の外へ戻った六人すべてへ、同じものが届いている。

 澪は紅茶を飲んだ。温かいはずなのに、舌へ触れた液体はひどくぬるく感じた。

「オンラインで話せるようにした。十時から」

 朔は腕時計を見た。

 あと三分だった。

 喫茶店の奥は朝の客が少なく、二人の席は壁際で離れている。朔はノート型端末を開き、イヤホンを一つ澪へ渡した。カメラは切ったまま、六人だけの通話を開始する。

 最初に画面へ現れたのは早乙女美月だった。

 白い壁と、閉じたロッカー。髪を低い位置でまとめ、紺色の医療用衣服の上に白衣を羽織っている。顔立ちは高校時代より鋭くなったが、眉間へ皺を寄せる癖は変わっていない。

『あと二十分しかない。救命の休憩室だから、呼ばれたら抜ける』

「悪い」

『謝るくらいなら要点から話して』

 声は短く、乾いていた。

 次に黒瀬悠斗が入る。

 画面の奥には、観葉植物と明るい事務所。薄い灰色のスーツを着て、首元のボタンを一つ外している。高校時代は誰より大きな声で皆をまとめていたが、今の声には営業で身につけた柔らかさがあった。

『久しぶり、でいいのか、こういう場合』

 誰も答えなかった。

 悠斗は唇の端だけで笑い、すぐにその笑みを消した。

 白石奈々香は、自宅らしい部屋から接続した。白い照明が強く、顔だけが不自然なほど明るい。背後には配信用の機材と、色の変わる細い照明が並んでいる。

『待って、私、今すごい顔してない? 寝てないの丸分かり?』

「化粧で隠れてる」

 美月が素っ気なく言う。

『それ、褒めてないよね』

 奈々香は笑った。

 声だけが、わずかに震えていた。

 最後に相馬透の名前が表示された。

 映像は出ない。黒い画面の中央に、白い文字だけが浮かんでいる。

「透?」

『いる』

 低く掠れた声だった。

 その一言のあと、細かな雑音が続く。紙を擦る音、何かのつまみを回す音。透はどこかの作業室にいるらしい。

 六人が揃った。

 澪はイヤホンの中へ重なる呼吸を聞いた。

 八年前、何度も聞いた声だった。放課後の部室で、誰が怖い場所へ入るかを言い争った。夜の校舎では、暗闇へ向かって互いの名を呼んだ。

 けれど今は、誰も最初の言葉を選べない。

 朔が画面を共有し、メールの送信情報を表示した。

「送信経路は偽装されてる。最後の接続記録だけ、七刻女学校の校内回線を示していた」

『そんなもの、まだ残ってるわけないだろ』

 悠斗がすぐに言った。

「回線自体は停止してる」

『なら偽装だ。誰かが昔の情報を調べて、俺たちを脅してるだけだろ。警察へ通報する。会社にも顧問弁護士がいる』

『警察はすぐには動かない』

 美月が遮った。

 悠斗が眉を寄せる。

『相談したのか』

『夜勤の前に。メールと番号は見せた。実害がなく、差出人を特定できない以上、現時点では記録を残すしかないって』

『殺すって書いてある』

『来なかった人から死ぬ、だけ。名指しの殺害予告と判断できるかは難しいそうよ』

『ふざけてる』

 悠斗の声から柔らかさが消えた。机を指で叩く音が、画面越しに響く。

 奈々香は肩をすくめた。

『誰かが八年前のことを利用してるだけでしょ。澄花の名前を使えば、私たちが怖がると思って』

 口元には笑みがあった。

 だが、片方の手は画面の外で何かを握りしめている。白くなった指の節だけが映っていた。

「昨夜、部屋の前に誰か来なかった?」

 澪が訊く。

 奈々香の笑みが止まった。

『来てない』

 答えるまでに、ほんの少し間があった。

『澪のところには来たの?』

「チャイムが鳴って、澄花の声がした」

 画面の中で、美月が目を伏せた。

 悠斗は何か言いかけ、やめた。

 奈々香の顔から血の気が引いた。

『それ、録音じゃない? 昔の動画とかから切り取った声』

「そうかもしれない」

『そうだよ。絶対そう。澄花が来るわけないんだから』

 奈々香は誰かへ言い聞かせるように繰り返した。

 そのとき、透の側から鋭い電子音がした。

『メールに音声がついてた』

「音声?」

 朔が訊く。

『画像の中に隠されてた。見た目は写真だけど、余分なデータが埋め込まれてる。今、分離した』

 黒い画面のまま、透の息が近づく。

『流す』

 最初に聞こえたのは雨だった。

 屋根か窓を叩く、密度の高い雨音。昨夜、澪の部屋で聞いたものとよく似ている。

 透が音量を上げる。

 雨の奥で、低い金属音が鳴った。

 かあん。

 長い余韻。

 そのあと、少女の声がした。

『一人、足りない』

 澪の腕に鳥肌が立った。

 音は小さい。けれど、六人全員が聞き取った。

『澄花のこと?』

 美月が呟く。

『七人で行って、六人で帰った。一人足りないって、そういう意味でしょう』

『違う』

 透が言った。

 短い否定だった。

『この声は、あとから重ねたものじゃない。雨音と同じ空間で、同じ時刻に録れてる。反響も一致してる』

「場所は分かるか」

『七刻女学校』

 透の声がさらに低くなる。

『後ろで鳴ってるのは、校内放送の前に入ってたチャイムだ。古い鉄琴式で、二音目が少し狂ってる。八年前、俺が録った』

 澪の脳裏に、暗い放送室が浮かんだ。

 埃を被った卓上機器。

 壁のスピーカーから突然流れた、歪んだチャイム。

 誰も触れていないのに灯った赤いランプ。

「その原音を持ってるのは?」

『俺だけだった』

 透は言った。

『事件のあとに消した』

「本当に全部?」

 朔の問いが落ちた。

 静かな声だった。

 透は答えない。

 イヤホンの中へ、六人分の沈黙が重なった。

 奈々香が小さく息を吸う。

 悠斗は画面の外へ視線を向けた。

 美月の背後で、遠くから誰かを呼ぶ声がしたが、彼女は動かなかった。

 その瞬間、六人のスマートフォンが同時に震えた。

 喫茶店のテーブルでも、澪と朔の端末がほとんど重なって鳴る。画面の向こうでは、美月も悠斗も奈々香も、それぞれ手元へ目を落とした。

 透の黒い画面からも、同じ振動音が聞こえた。

 通知には、見覚えのある名が表示されていた。

 七刻心霊研。

 八年前に使っていたグループチャットだった。

 澪は呼吸を忘れた。

 事件後、誰からともなく退会し、最後には消したはずの場所。古い端末にも残していない。

 それが、一覧の最上部へ戻っている。

 澪は指先で開いた。

 退会したはずの六つのアカウントが並んでいた。

 雨宮澪。

 神代朔。

 早乙女美月。

 黒瀬悠斗。

 白石奈々香。

 相馬透。

 最後に、椎名澄花。

 名前の脇へ、淡い緑色の印が灯った。

 椎名澄花がオンラインになりました。

 澪のすぐ横で、朔の指が動きを止めた。

 画面の向こうの奈々香が、かすかに首を振っている。

 美月の唇が「嘘」と形を作った。

 新しいメッセージが表示された。

 今度は、全員で来てね。

 その文の下へ、六つの既読が一つずつ灯った。

 最後の一つが増えた瞬間、透の黒い画面から、少女の笑い声が聞こえた。

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  • この物語を最後まで読んではいけない ――七つの呪地と八人目の犯人――   第20話 先に振り返った澄花

     東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか

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